江戸の温泉番付「肥後阿蘇の湯」はどこ?──内牧ではなく南阿蘇でした

江戸時代の温泉番付『諸国温泉功能鑑』(1817年・文化14年)の西の前頭に、「肥後阿蘇の湯」という名があります。

いまの熊本県、阿蘇の湯。そう聞いて多くの人が思い浮かべるのは阿蘇内牧温泉でしょう。実際、ネット上でもそう説明されていることがあります。

ところが、内牧温泉が湧いたのは明治30年(1897年)。番付が刷られた1817年より、80年もあとのことでした。番付ができた時点で、内牧に温泉はまだ湧いていません。

では「肥後阿蘇の湯」とはどこか。がやの結論を先に書くと、南阿蘇の湯——なかでも栃木(とちのき)温泉と湯の谷温泉です(確信度・高)。1738年の医書と、学術文献の比定が、そろって南阿蘇を指していました。

この記事で分かること

  • 阿蘇内牧温泉の開湯は明治30年(1897年)で、番付が刷られた1817年より80年あとであること
  • 1738年の医書『一本堂薬選 続編』の肥後の湯の一覧に、内牧が載っていないこと
  • 学術文献の比定は「栃ノ木/湯谷」=どちらも熊本県阿蘇郡南阿蘇村であること
  • 栃木温泉が「開湯300年」を掲げ、番付より前から湧いていた湯であること
  • 地獄温泉・垂玉温泉は熊本地震で被災し、いずれも再開していること

番付での位置──西の前頭、上段

まず番付での位置を確かめます。「肥後阿蘇の湯」は西之方の前頭・上段に置かれています。九州の湯としては、豊後濱脇(別府浜脇)や肥前温泉山(雲仙)と同じ段です。

この番付は、がやが今の温泉名に対応させて地図にした記事でも扱っている『諸国温泉功能鑑』です(版や所蔵機関により『効能鑑』とも表記されます)。

つまり当時、阿蘇の湯は全国区で名を知られていたということになります。ではその湯はどこにあったのか。

内牧温泉は、番付の80年あとに湧いた

先に、いちばん有力に見える候補を外しておきます。阿蘇内牧温泉です。

阿蘇市の広報誌「よかとよ阿蘇市」2011年3月号(PDF・1ページ目「知っ得情報! よかとこ阿蘇市」)は、内牧温泉についてこう書いています。

明治、大正、昭和と長年多くの観光客や地元の人たちに親しまれている「内牧温泉」。今年で開湯114年を迎えます

2011年から114年をさかのぼると1897年、明治30年です。同じ紙面には「今も20数件の旅館やホテルが立ち並び」ともあり、見出しには「114年」に「いいよ」とルビが振られています。

番付が刷られたのは1817年。内牧に湯が湧く80年前のことです。番付を作った版元が、まだ存在しない湯を載せることはできません。

じつはがや自身、この番付を調べはじめたころに内牧を訪ねています。そのとき温泉街で見た「阿蘇乃湯」という施設の案内板に、こう書かれていました。

内牧温泉の「阿蘇乃湯」前に立つ案内板。温泉の説明と内牧温泉公衆浴場 湯めぐりマップが記されている
がやが内牧温泉で見た「阿蘇乃湯」の案内板。左上の「温泉の説明」に「民宿創業当時(平成3年)は温泉ではありませんでした」とある。下半分は内牧温泉の「町湯」をめぐるマップ/設置:阿蘇インフォメーションセンター(撮影:がや)

民宿創業当時(平成3年)は温泉ではありませんでしたが、将来は温泉掘削を考えていましたので、良い湯が出ますようにと「民宿阿蘇の湯」と名付けました。その後願い通り見事な温泉が出ましたので、温泉センターを併設し現在に至っています。

平成3年は1991年。「阿蘇の湯」という名の湯が、平成に入ってから掘り当てられている。内牧という土地の温泉が、けっして古いものではないことがよく分かる一枚でした。

内牧温泉は「肥後阿蘇の湯」ではありえない——これがこの記事の出発点になります。

1738年の医書に「阿蘇山の湯」が載っていた

では番付より前、阿蘇にどんな湯があったのか。それを知る手がかりが、番付の79年前に書かれた医書にあります。

香川修庵『一本堂薬選 続編』(元文3年・1738年)。その温泉の章に、諸国の湯が国ごとに列挙されています。がやが国立国会図書館デジタルコレクションの原本(コマ22)を確かめたところ、肥後の項はこうなっていました。

肥後州之 雛来(ひなご)・硫黄嶽・檪木(とちのき)・湯谷・葦北・平山・垂玉(たるたま)・杖立 此二泉在阿蘇山 山鹿

なお、この直前には肥前の湯が並んでおり、そこに「武雄 一に塚崎と名づく」とあります。塚崎は武雄温泉の古い名で、肥後の湯ではありません。

ちなみに、この肥後の一覧に並ぶ湯のうち、雛来はいまの日奈久温泉山鹿はいまの山鹿温泉です。どちらも同じ番付に別の名で載っており、がやが記事にしています。

一本堂薬選続編の肥後の温泉一覧。檪木・湯谷・垂玉の名と「此二泉在阿蘇山」の割注が見える
『一本堂薬選 続編』(元文3年・1738)の肥後の項。雛来・硫黄嶽・檪木・湯谷・葦北・平山・垂玉・杖立と並び、「此二泉在阿蘇山」の割注が入る。内牧の名はない/出典:国立国会図書館デジタルコレクション(パブリックドメイン・部分を拡大)

末尾近くに「此の二泉、阿蘇山に在り」という割注が入っています。阿蘇山にある湯だと、書いた本人が明記しているわけです。

そしてもう一つ、見落とせないことがあります。この一覧に内牧はありません。1738年の時点で、肥後を代表する湯として数え上げられた中に、内牧の名は出てこないのです。

学術文献の比定は「栃ノ木/湯谷」

この一本堂の記述を、番付と突き合わせた研究があります。

石川理夫「江戸時代の温泉番付にみる温泉地の受容と変遷」(『温泉地域研究』第27号・日本温泉地域学会・2016年)表1(誌面17ページ)は、番付1817年の全エントリと一本堂1738年の記載を1行ずつ対照させたものです。

その「肥後阿蘇湯」の行を、がやが誌面で確かめました。

  • 番付1817年:肥後阿蘇湯
  • 一本堂1738年:檪ノ木、湯谷他
  • 該当する現在の温泉地:栃ノ木/湯谷

栃木温泉と湯の谷温泉。どちらも熊本県阿蘇郡南阿蘇村にあります。学術側の比定も、内牧ではなく南阿蘇を指していました。

ここで見逃せないのがルビです。原本の「檪木」の右には、「トチノキ」とカタカナが振られています(がやが原本を拡大して確かめました)。

つまり檪木=栃ノ木は、あとから誰かが当てはめた解釈ではありません。1738年に書いた本人が「とちのき」と読ませているのです。字は「栃ノ木」と違いますが、読みは原本にそう書いてあります。

南阿蘇五岳五湯──江戸時代から湧いていた湯

栃木温泉・湯の谷温泉があるのは、阿蘇五岳の南麓です。この一帯の湯は「南阿蘇五岳五湯」と総称されます。

一本堂に名の挙がる垂玉温泉も、この一帯です。烏帽子岳の中腹にあり、隣接する地獄温泉江戸時代には熊本藩の藩士しか入浴を許されなかった格式の湯でした(当時の掟書は1808年のもの)。

そして南阿蘇村温泉旅館組合は、栃木温泉について「開湯は江戸時代前期。最も古い歴史をもち」と説明しています。五岳五湯のなかで最も古いのは栃木温泉だと、地元の組合自身が認めているわけです。

つまり南阿蘇には、番付が刷られるよりずっと前から湧いていた湯が集まっている。逆に内牧のある阿蘇谷の北側は、明治になってから温泉地として開けた土地でした。

阿蘇という広い地名のなかで、江戸時代に「阿蘇の湯」といえば南麓を指した——そう考えると、番付の記載と地理が無理なくつながります。

栃木温泉──「開湯300年」が番付とつながる

番付の本命として名の挙がる栃木(とちのき)温泉は、いまも南阿蘇村河陽にあります。

この湯を守ってきたのが小山旅館です。公式サイトは栃木温泉を「開湯300年の阿蘇の名湯」と紹介しています。

ここが大事なところです。300年前はおよそ1720年代。一本堂薬選が書かれた1738年とほぼ重なり、番付が刷られた1817年よりも前になります。

つまり番付が作られた当時、栃木温泉はすでに100年近い歴史を持つ湯だったことになります。明治30年に湧いた内牧とは、時間の軸がまるで違います。

宿からは落差のある鮎返りの滝が望めます。泉質について南阿蘇村温泉旅館組合は栃木温泉を「美肌成分が多く含まれ」と説明しています。

地獄温泉と垂玉温泉──熊本地震から戻ってきた湯

垂玉温泉の全景。渓谷に落ちる滝と、その下に建つ宿
垂玉温泉。渓谷に落ちる滝のそばに宿が建つ/Wikimedia CommonsCC BY-SA 2.5・掲載にあたり縮小しています。この写真は同じライセンスのもとで再配布・改変できます)

一本堂に名の見える垂玉(たるたま)温泉と、その隣の地獄温泉。この二つには、近年の大きな出来事があります。

2016年の熊本地震です。烏帽子岳の中腹にある両温泉は大きな被害を受け、長く休業を余儀なくされました。

それでも湯は戻ってきました。地獄温泉「青風荘.」2020年9月18日に宿泊を再開し、2022年4月からは日帰りの湯治利用も受け入れています。公式サイトは自らの湯を「200年を超える昔から愛されてきた」と記しています。番付が刷られた1817年は、いまからちょうど200年あまり前です。

垂玉温泉も「瀧日和」として再開しました。かつての「山口旅館」が名を改めた宿です。

江戸の番付に載った湯が、震災を越えていまも湧いている——そう考えると、この一帯の湯の重みが少し変わって見えてきます。

日帰りで入る・泊まる

南阿蘇村温泉旅館組合には、16軒の宿が加盟しています(がやが加盟一覧を数えました)。栃木温泉・地獄温泉・垂玉温泉・白水温泉・火の山温泉・俵山温泉などに分かれています。

組合が公表している泉質はそれぞれ異なります。栃木温泉は「美肌成分が多く含まれ」地獄温泉は「酸性硫黄泉」垂玉温泉は「メタケイ酸が多量に含まれ」白水温泉は「炭酸水素塩泉」数キロの範囲で湯の性格がここまで違うのが南阿蘇のおもしろさです。

日帰り入浴の例として、垂玉温泉「瀧日和」10時から19時(受付は18時まで)、大人1,000円(繁忙期は1,200円)、定休日は水曜と第2・第4木曜と公表しています。

ほかの宿の立ち寄り湯も料金・受付時間は宿ごとに違い、変更もあります。出かける前に各宿の公式ページでご確認ください

アクセス

南阿蘇の田園から望む阿蘇五岳。手前に畑と農道が広がる
南阿蘇の田園から望む阿蘇五岳。湯はこの山の南麓に散らばる/Wikimedia Commons(撮影:そらみみ/CC BY-SA 4.0・掲載にあたり縮小しています。この写真は同じライセンスのもとで再配布・改変できます)

南阿蘇の湯は、阿蘇五岳の南側に散らばっています。内牧のある阿蘇谷とは山を挟んで反対側です。同じ「阿蘇」でも車で移動する距離があります。

垂玉温泉「瀧日和」が公表しているアクセスは次のとおりです。

  • 熊本インターチェンジから約45分。国道57号を阿蘇方面へ進み、立野の新阿蘇大橋を渡って国道325号を高森・高千穂方面へ約5分。3つ目の信号を左折し、村道を約10分登ります
  • 飛行機熊本空港から車で約40分
  • 鉄道熊本駅からJR豊肥本線で「立野駅」下車、タクシーで20分

(出典:垂玉温泉 瀧日和「ご利用案内」)。同じ南阿蘇村内でも宿によって道順が変わりますので、宿泊先の案内もあわせてご確認ください。

地獄温泉「青風荘.」の所在地は熊本県阿蘇郡南阿蘇村河陽2327、栃木温泉「小山旅館」は同 河陽4284。どちらも河陽の地内で、烏帽子岳の山あいに向かって上がっていく道の先にあります。

山道が続くため、冬季や雨天は路面状況にご注意ください。

がやの結論

番付の「肥後阿蘇の湯」は、南阿蘇の湯を指しているとがやは考えます(確信度・高)。なかでも一本堂と学術比定の両方が名を挙げる栃木温泉と湯の谷温泉が本命です。

根拠は三つ、いずれも別の系統の資料です。

  • 一本堂薬選 続編(1738年)──阿蘇山の湯として檪木・湯谷・垂玉を挙げ、内牧を挙げていない
  • 石川理夫氏の対照表(2016年)──「肥後阿蘇湯」の比定を栃ノ木/湯谷とする
  • 阿蘇市広報(2011年)──内牧温泉は明治30年開湯で、番付の80年後

ひとつ、正直に書いておきます。一本堂の割注「此二泉在阿蘇山」が、並んだ湯のうちどの二つを指すのかは、原本の字面だけでは決めきれません。割注は「垂玉・杖立」の直後に置かれているため、その二つを指すようにも読めます。

ただし杖立温泉は阿蘇郡小国町にあり、阿蘇山からは北へ50kmほど離れています。「阿蘇山に在り」と書くには遠すぎる。そう考えると、残るのは南阿蘇側の湯です。石川氏が檪木・湯谷を採るのも、同じ理由からだと思われます。

番付に残る“???”は、一つずつ追いかけています。今回もその一つです。

よくある質問

Q. 「肥後阿蘇の湯」は阿蘇内牧温泉ではないのですか?
A. 違うとがやは考えます。内牧温泉の開湯は明治30年(1897年)で、番付が刷られた1817年より80年あとです。1738年の医書『一本堂薬選 続編』の肥後の湯の一覧にも、内牧は載っていません。

Q. ではどこの温泉ですか?
A. 南阿蘇の湯です。学術文献の比定は栃木(とちのき)温泉と湯の谷温泉で、どちらも熊本県阿蘇郡南阿蘇村にあります。1738年の医書にも、同じ一帯の垂玉温泉とともに名が挙がっています。

Q. 番付での位置づけは?
A. 西之方の前頭・上段です。豊後濱脇(別府浜脇)や肥前温泉山(雲仙)と同じ段に置かれています。

Q. 南阿蘇五岳五湯とは何ですか?
A. 阿蘇五岳の南麓に湧く温泉群の総称です。南阿蘇村温泉旅館組合は栃木温泉を「開湯は江戸時代前期。最も古い歴史をもち」と説明しており、ほかに垂玉温泉・地獄温泉・白水温泉などが含まれます。

Q. 内牧温泉には行く価値がないのですか?
A. そんなことはありません。内牧は阿蘇五岳を望む温泉街で、宿の多くが源泉かけ流しです。とくに「町湯(まちゆ)」と呼ばれる公衆浴場が点在しているのが特徴で、がやが見た案内板には阿蘇乃湯・入船・新穂湯・薬師温泉・宝湯・大阿蘇温泉・七福温泉の7か所が載っていました。100円台から入れる湯もあります(料金・時間は案内板掲示時点のものです。お出かけ前に阿蘇インフォメーションセンターや各施設でご確認ください)。ただし江戸の番付に載っている湯ではない、というだけの話です。

参考・出典

この記事を書いた人

がや。江戸時代の温泉番付『諸国温泉功能鑑』に載る湯が、いまのどの温泉地にあたるのかを一つずつ調べています。所有する諸國温泉鑑(弘化2年・1845年改訂版)の実物をもとに、原本と学術文献を突き合わせて確かめる方針で書いています。

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