江戸の温泉番付「越後塩沢の湯」はどこ?──有力候補はあるのに未決着

江戸時代の温泉番付に「越後塩沢(えちごしおざわ)の湯」という温泉が載っています。ところが、新潟県のいったいどこの湯なのか、じつははっきりしていません。調べてみると、有力な候補はあるのに、専門家のあいだでもまだ決着がつかない——そんな“宙ぶらりん”の温泉でした。

この番付は、がやが今の温泉名に対応させて地図にした記事でも扱った『諸国温泉功能鑑』(1817年・文化14年)。そこで現在地が分からないままにしている温泉のひとつが、この越後塩沢の湯です。石州川村の湯のように最後まで謎でもなく、越中足倉の湯のようにスパッと決まるのでもない。今回は「候補は絞れたけれど、決着待ち」のお話です。

江戸の温泉番付「越後塩沢の湯」はどこ?最有力は関川村の湯沢温泉・候補はあるのに未決着

この記事で分かること

  • 「越後塩沢の湯」は新潟県のどの湯か、専門家の間でも決着していないこと
  • 最有力とされる関川村・湯沢温泉(旧・垂水の湯)は学術文献でも候補に数えられていること
  • 南魚沼・塩沢説と越後湯沢説のそれぞれの強み・弱み
  • 宝暦6年(1756年)の地誌『越後名寄』が魚沼の2温泉(貝掛・越後湯沢)を記録していること
  • 学術文献の対照表が挙げる第4の候補・貝掛温泉を含め、候補は四つに広がること

番付での位置と「塩沢」の謎

江戸時代の温泉番付『諸国温泉効能鑑』の木版一枚摺。越後塩沢の湯は西方・前頭三段目に載る
温泉番付『諸国温泉効能鑑』(江戸後期・木版一枚摺)
出典:東京大学総合図書館所蔵・東京大学デジタルアーカイブポータル(パブリックドメイン)

「越後塩沢の湯」は、番付の西方・前頭三段目に載っています。「越後(えちご)」は今の新潟県のこと。ですが「塩沢の湯」と言われても、すぐにこれだ、という温泉が思い浮かびません。ここが出発点でした。

最有力は「関川村の湯沢温泉」

いちばん有力とされるのは、新潟県北部・岩船郡関川村(せきかわむら)の「湯沢(ゆさわ)温泉」です。ウィキペディアの温泉番付の解説でも「越後塩沢の湯=関川村の湯沢温泉」と結びつけられています。(出典:温泉番付 – Wikipedia)ただしこれは、もともと郷土史家の高橋範行さんが2021年に示した見方を、ウィキペディアが引いたもの。いわば“近年の一つの新説”で、昔からの定説というわけではありません。

この湯沢温泉、古くは「垂水(たるみ)の湯」と呼ばれ、鎌倉時代に熊が湯を浴びているのを見つけて開いた、という言い伝えのある古い湯です。(出典:えちごせきかわ温泉郷湯沢温泉(関川村)- Wikipedia)1738年(元文3年)の医書『一本堂薬選(いっぽんどうやくせん)』続編の温泉の項に「湯澤」と載り(早稲田大学図書館蔵の原本をがやが確認したところ、同じ関川村の雲母(きら)温泉と並べて記されていました)、明治の『大日本地名辞書』にも「薬師湯・温百三十度」(およそ54度の高温)と記されています。明治の温泉調査では浴客が年に一万人を超える、県内でも指折りの湯治場でした。(出典:湯沢温泉(関川村)- Wikipedia『日本鉱泉誌』(1886)

泉質はナトリウム-塩化物・硫酸塩泉で、たしかに塩気のある湯です。(出典:えちごせきかわ温泉郷)ただ、番付の字が「湯沢」ではなく「塩沢」になっている理由は、じつはよく分かっていません。同じ番付の別のところでは「米沢の湯沢」がちゃんと「湯沢」と彫られていて、単なる彫り間違いとも言い切れないのです。「塩気のある湯だから塩沢」と読めなくもありませんが、これも確かな裏づけがあるわけではありません。

もう一つの説「南魚沼市の塩沢」

いっぽうで、別の見方もあります。新潟県立歴史博物館の収蔵資料のデータベースでは、この湯を地名どおり「塩沢の湯(南魚沼市)」として扱っています。(出典:新潟県立歴史博物館 収蔵品DB)塩沢は三国街道の宿場町で、鈴木牧之(すずきぼくし)の『北越雪譜』でも知られる土地です。

ただ、調べたかぎりでは、今の南魚沼あたりの温泉(六日町温泉や丸山温泉など)は昭和になってからの掘削(ボーリング)で湧いたもので、江戸時代にそこへ自然に湧く温泉があった、という記録は見あたりませんでした。地名としては「塩沢」でぴたりなのですが、番付が作られた当時に入れる湯があったのかは、はっきりしないのです。

▼ 対抗説:塩沢(新潟県南魚沼市)

もうひとつの候補──越後湯沢温泉

じつは、もう一つ見のがせない候補があります。同じ新潟県の「越後湯沢(えちごゆざわ)温泉」(今の南魚沼郡湯沢町)です。ここは江戸時代にはすでに湯があり、江戸と越後を結ぶ三国街道沿いにありました。(出典:越後湯沢温泉 – Wikipedia)そしてそのすぐ隣が、いま話に出た塩沢の宿場です。旅人が隣り合う宿場の名「塩沢」でこの湯を呼んだ、と考えると、地理のうえではいちばん自然な見方かもしれません。「塩沢の湯=越後湯沢」と直接書いた古文書こそありませんが、次に紹介するとおり、越後湯沢に江戸期から湯があったことは当時の地誌で確かめられます。捨てがたい候補です。

▼ もうひとつの候補:越後湯沢温泉(新潟県湯沢町)

学術文献の検討──『越後名寄』と第4の候補・貝掛温泉

この謎は、学術誌でも検討されています。石川理夫「江戸時代の温泉番付にみる温泉地の受容と変遷」(『温泉地域研究』第27号・日本温泉地域学会・2016年)は「越後塩澤湯」について「直接該当する温泉はない」「旧魚沼郡塩沢とするなら当時温泉はない」としたうえで、宝暦6年(1756年)刊の地誌『越後名寄(えちごなよせ)』巻之九「温泉部」に魚沼郡の温泉が二つ載っていることを指摘します。「鐘掛」——今の貝掛(かいかけ)温泉(越後湯沢の奥、旧三国街道沿いにいまも続く一軒宿)と、「湯澤」——今の越後湯沢温泉です。

つまり、番付より60年ほど前の地誌が、魚沼の山中に二つの湯の実在を記録していたことになります。越後湯沢説の裏付けになると同時に、目の湯として知られる貝掛温泉という第4の候補まで浮かんでくるわけです。

いっぽう同論文は、「塩沢」を「湯沢」の誤記とみる場合の候補として、元文3年(1738年)の『一本堂薬選続編 温泉』に載る「越後州ノ…湯沢」——関川村の湯沢温泉も挙げています。関川村説は近年の新説(2021年)だけでなく、学術文献でも候補に数えられていたことになります。ただし同論文の対照表も、結論は「(湯沢か)」どまり。どの「湯沢」なのかまでは、学術の側でも決めきれていないのです。

湯沢温泉(関川村)のいま

最有力の関川村・湯沢温泉は、幕末の「桜田門外の変」で井伊直弼を襲った水戸浪士・関鉄之介が捕らえられた地としても知られ、吉村昭の小説『桜田門外ノ変』にも登場します。

ただ、今は少しさびしい状況です。2022年8月の記録的な豪雨で、当時ただ一軒だった旅館「仲屋(なかや)旅館」が被災して廃業してしまいました。それでも共同浴場は今も残り、地元の人たちに大切に守られています。

▼ 最有力候補:湯沢温泉(新潟県岩船郡関川村)

がやの結論

というわけで、番付の「越後塩沢の湯」は、最有力が関川村の「湯沢温泉」(旧・垂水の湯)。ただしそれも近年の一つの新説どまりで、隣の宿場の名で呼ばれたかもしれない越後湯沢温泉、字面どおりの南魚沼・塩沢、さらに学術文献が挙げる貝掛温泉まで含めれば、候補は四つ。専門家のあいだでもまだ白黒はついていません。今回は「候補はしぼれたけれど、決着待ち」というのが正直なところです。

候補 根拠 弱み いまの姿
関川村・湯沢温泉(旧・垂水の湯) 郷土史家の新説・学術文献も「湯沢か」 「塩沢」の字の説明がつかない 旅館は2022年廃業・共同浴場は現役
越後湯沢温泉 隣の宿場「塩沢」の名で呼ばれた可能性 「塩沢の湯=越後湯沢」と書いた古文書がない 現役の大温泉地
南魚沼・塩沢 地名がそのまま一致(博物館DBの扱い) 江戸期に湧く温泉の記録が見あたらない 三国街道の宿場町(温泉は昭和以降の掘削)
貝掛温泉 『越後名寄』(1756年)が「鐘掛」の湯を記録 「塩沢」と名前が結びつかない 旧三国街道沿いの一軒宿

スパッと一つに決まる越中足倉の湯(=立山温泉)もあれば、最後まで謎の石州川村の湯もあり、今回のように“決着待ち”のものもある。古い番付を読むおもしろさは、こういう幅にあるのかもしれません。新しい手がかりが見つかれば、また追記します。

▼ この温泉番付の全体(今の温泉名との対応・地図)はこちらの記事にまとめています。
温泉番付(江戸時代)を今の温泉名にして地図に表記!

よくある質問

「越後塩沢の湯」は、いまのどこの温泉ですか?

決着していません。最有力は関川村の湯沢温泉ですが、越後湯沢温泉・南魚沼の塩沢・貝掛温泉という候補もあり、学術文献の対照表でも「(湯沢か)」という表現にとどまっています。

なぜ「塩沢」という名前なのに特定できないのですか?

江戸時代の南魚沼・塩沢周辺に自然湧出の温泉があった記録が見つからないためです。同じ番付で米沢の「湯沢」は正しく彫られており、単純な彫り間違いとも言い切れません。

候補の湯には、いまも入れますか?

関川村の湯沢温泉は2022年の豪雨で旅館が廃業しましたが共同浴場が残っています。越後湯沢温泉・貝掛温泉は現役の温泉地です。

参考・出典

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