がやは以前、江戸時代の温泉番付『諸国温泉功能鑑』(1817年・文化14年)を土台に、今の温泉名に対応させて地図にする、という記事を書きました。その番付には、現在地が分からず「???」のままにしている温泉がいくつかあります。
そのひとつが「越中足倉(えっちゅうあしくら)の湯」です。今回この温泉を調べてみたところ、うれしいことに正体が分かりました。石州川村の湯(こちらは調べても分からずじまいでした)とちがって、これは“解けた???”のお話です。

この記事で分かること
- 「足倉」は立山信仰の地域文字「峅(くら)」の当て字と考えられること
- その湯は富山の名湯「立山温泉」を指すとみられること
- 立山温泉は1973年に廃湯となり、いまは入浴できないこと
📑 目次
番付での位置と「足倉」の謎
「越中足倉の湯」は、番付の西方・前頭三段目に載っています(出典:米澤誠「諸国温泉効能鑑の翻刻」)。「越中(えっちゅう)」は今の富山県のこと。ですから素直に読めば「富山県の足倉というところの湯」となります。
ところが、富山県の地図をいくら探しても「足倉」という温泉地や地名が見当たりません。ここが最初のつまずきでした。
カギは「峅(くら)」という珍しい字
手がかりは、立山(たてやま)のふもとにある「芦峅寺(あしくらじ)」という集落でした。この「峅」という字、じつは立山信仰の地でだけ使われる、とても珍しい漢字で、「くら」と読みます(出典:三省堂 漢字の現在 第240回/漢字辞典オンライン)。つまり「芦峅」は「あしくら」。
お気づきでしょうか。「足倉」も「あしくら」。読みがぴたりと同じです。江戸の版元(出版元)が、この見慣れない「峅」の字を彫るのに困り、同じ音の「倉」に置き換えた――「芦峅(あしくら)」が「足倉(あしくら)」になった、と考えると、きれいに筋が通ります。
じつは、この見方を後押しする証拠がもう一つあります。同じ番付の東側には「相州足の湯」という温泉が載っていて、これは箱根の芦之湯(あしのゆ)を指すのが定説です。つまりこの番付を作った版元は、「芦(あし)」を「足」と書くクセを、ほかの温泉でも見せているのです。「芦峅」を「足倉」と刷ったのも同じクセだと考えれば、いっそう腑に落ちます。
芦峅寺は「立山温泉」の玄関口だった
では芦峅の湯とは何でしょう。芦峅寺は立山信仰の拠点で、山奥にあった「立山温泉」(常願寺川の支流・湯川沿い)へ向かうときの入口の集落でした(出典:芦峅寺 – Wikipedia)。古くは、険しい山道をたどって湯へ向かう人は、まず芦峅寺を通りました。
ただし文化11年(1814年)には常願寺川の対岸に新しい道が開かれ、芦峅寺を通らずに温泉へ直行する人が増えていきます(出典:高野靖彦「越中立山温泉の経営をめぐって」(2020))。番付が刷られた文化14年(1817年)は、その3年後にあたります。
それでも番付が温泉そのものの名前ではなく集落名「芦峅(足倉)」を掲げたのは、長らく芦峅寺が湯への玄関口として知られていたからだと考えられます。
※ 電鉄富山駅から千垣駅までの所要時間は列車によって異なるため、富山地方鉄道の時刻表でご確認ください。バス・徒歩・車の情報は富山県[立山博物館]公式サイトによります。
決め手──地元・芦峅寺村じしんの証言
そして、決め手が見つかりました。富山県立山博物館の研究(高野靖彦「越中立山温泉の経営をめぐって」)に、こんな記録が引かれています。明治のはじめ、温泉の再興をめぐって、芦峅寺村が「番付にある『越中芦峅の湯』とは立山温泉のことだ」と主張していた、というのです(出典:高野靖彦「越中立山温泉の経営をめぐって」(2020))。
つまり、当事者である地元の村じしんが「あの番付の湯は、うちの立山温泉だ」と申し立てていたわけです。これは「あしくらの湯=立山温泉」を裏づける、とても強い傍証だとがやは考えています。
ただ、正確を期すために注意書きをふたつ添えておきます。
ひとつめは、論文が引いているのは「全国諸国湯番付」という名前で、それが『諸国温泉功能鑑』そのものを指すとは書かれていないことです。江戸時代の温泉番付は何種類も出ていますので、同じものと決めつけることはできません。
ふたつめは、この願い出には反対があったことです。論文には「湯本及び岩峅寺衆徒がこれに反対し、十村も両者の主張を支持したため、藩は芦峅寺村からの請願を却下した」とあります。願い出には「道路を自分たちの村側に通したい」という思惑もからんでいたため、そこも含めて争いになったようです。
ですからがやとしては、「越中足倉(=芦峅)の湯は立山温泉を指す」という見方はかなり有力だけれども、当時それが誰もが認める定説だったとまでは言えない、というあたりに置いておきたいと思います(出典:高野靖彦「越中立山温泉の経営をめぐって」(2020))。
立山温泉のいま──もう入れない名湯

撮影:臼井写真師/出典:大井信勝編『立山案内』(1908年・清明堂書店)[Wikimedia Commons・パブリックドメイン]
その立山温泉は、山田・小川・大牧とならぶ「越中四名湯」に数えられた名湯でした。古くは「立山下温泉」「多枝原温泉」「有峰温泉」とも呼ばれました。古い絵図には、天正12年(1584年)に佐々成政がこの湯に入ったという書き入れが残っています。江戸時代の安永年間(1772〜81年)には岩峅寺の衆徒が藩から経営を認められ、湯治場として整えられていきました(出典:高野靖彦「越中立山温泉の経営をめぐって」(2020))。
ただし、今はもう入ることができません。1858年(安政5年)の飛越地震にともなう土石流で温泉街が壊滅し、いったんは復興したものの、昭和44年(1969年)の豪雨による大土石流を経て、1973年(昭和48年)に廃湯となりました(出典:立山温泉 – Wikipedia)。今は富山市有峰の山奥(旧・立山カルデラ)に、源泉と痕跡が残るだけです。
いまも「跡」を見ることはできる
立山温泉に入ることはもうできませんが、その跡地は今も湯川沿いに残っています。じつは、そこを見学できる方法がひとつだけあります。
富山県と公益財団法人立山カルデラ砂防博物館が主催する「立山カルデラ砂防体験学習会」です。ここには「立山温泉跡コース」があり、事前に申し込めば参加できます(立山カルデラ砂防体験学習会の公式サイト)。
立山カルデラは一般車両が入れない区域なので、跡地を訪ねられるのは実質この学習会のときだけです。実施期間・コース内容・受付状況は年度によって変わりますので、参加を考える場合は公式サイトで最新の案内をご確認ください。
それと、もうひとつ。立山温泉とならんで「越中四名湯」に数えられたのが、山田温泉・小川温泉・大牧温泉です。このうち小川温泉元湯と大牧温泉は、いまも宿が湯を守っています。とくに大牧温泉は庄川峡の秘湯で、遊覧船でしか行けない一軒宿として知られています。
なお、がやが調べたかぎり『諸国温泉功能鑑』で越中から選ばれているのは、この「足倉の湯」ただ一つです。四名湯のほかの三湯は、この番付には名前がありません。立山の山奥にあった湯が、越中を代表する一湯として江戸で知られていたことになります。
がやの結論
というわけで、番付の「???」のひとつ「越中足倉の湯」は、立山信仰の珍しい字「峅」が同じ音の「倉」に化けた当て字で、その正体は富山の名湯「立山温泉」(今は廃湯)だと考えられます。
地元の芦峅寺村じしんが「あの番付の湯は、うちの立山温泉だ」と申し立てていた記録が残っているのですから、がやとしては、かなり有力な見方だと思っています。
石州川村の湯のように最後まで謎のままのものもあれば、こうして一字のからくりが解ければすっきり答えにたどりつくものもあります。古い番付を読むおもしろさは、こういうところにあるのかもしれません。
まだ「???」のままの湯もふくめて、この番付の全体は温泉番付(江戸時代)を今の温泉名にして地図に表記!に一覧でまとめています。
よくある質問
越中足倉の湯とは、いまのどこの温泉ですか?
富山県の立山温泉を指すと考えられます。「足倉(あしくら)」は立山信仰の地域で使われる珍しい字「峅」を用いた「芦峅(あしくら)」の当て字とみられ、芦峅寺はその湯への玄関口にあたる集落でした。
立山温泉は、いまも入れますか?
入れません。1858年(安政5年)の飛越地震で埋没し、いったんは復興したものの、1969年(昭和44年)の豪雨による大土石流を経て、1973年(昭和48年)に閉鎖されました。いまは湯川沿いに源泉と痕跡が残るだけです。
立山温泉の跡地は見学できますか?
できます。ただし立山カルデラは一般車両が入れない区域のため、富山県と立山カルデラ砂防博物館が主催する「立山カルデラ砂防体験学習会」の立山温泉跡コースに事前申し込みで参加する方法にかぎられます。実施期間や受付状況は年度によって変わります。
